在り方終身雇用に興味ありませんか?〜with人生を添えて〜

どうも

シューリーです。

 

突然ですが、

みなさん"在り方"って知ってますか?

 

在り方とは、

現にある、存在のしかた。ありさま。ありがたち。

だそうです。

 

みじかな例でいうと

「お兄ちゃんなんだからお兄ちゃんっぽくしなさい!!」

長男の方はよく言われたんじゃないですかねぇw

これは、役割に対しての在り方なのですが、

これの人生版?って言ったらいいのかなぁ

例がお兄ちゃんという立場としてふさわしい態度、雰囲気、考え方をするように

言われているのであれば、人生版は

シューリーがシューリーであるべくシューリーっぽい立ち居振る舞いで在りなさいって感じ。

シューリーという役割として生きる?に近いのかな

なかなか言語化は、難しい。

 

私も、いくつか在り方をご教授してくれるセミナーなどに参加して

"決めないということを決めました"という非常に適当な回答なのですが、

そこを深掘った内容が今回という感じです。

 

過去の記事で大雑把な流れを書いています。

 ↓

shuritobrand.hateblo.jp

 

いくつかセミナーに参加して行く中で、ふと思うことができたんですよ。

 

あれ?これ、、、会社探してる就活生と同じじゃね?

 

と、、、

 

在り方のセミナーで在り方を決定して行くフェーズって基本的には、以下のフローで動いていきます。

※主観です。

 

 

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では、就活生はどうでしょうか?

比較して見ましょう。

 

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やってること自体はあまり変わらないです。

転職活動も似ています。

 

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ゆえに、在り方を決定し進み続けるとは、終身雇用の会社を決定し

そこで役割を全うすることに非常に似ている。

 

在り方がコロコロ変わる人は、転職が多い人と似ている。

昔は、転職が多いと無能だ!何か問題があるのではないか!と思われることが多かった

今は、前会った時と次会った時の目標の方向性が常に変わっていてそのフローに繋がりが見えにくい人を"ブレている"と言う。

今も昔も形態が変わっただけで確定しきれない人、コロコロ移る人は、

良くないとされて来ていることがわかる。

 

けどね!!

ここで私が"決めないということを決めました"という理由が出てくるんですが、

縛られることがとにかく嫌でフリーランスになったんですよ。

そしたらまた在り方を決めたほうがいいとなるわけです。

在り方を定めるという縛りも嫌なんだ!

俺を縛らないでくれ!

自分の感情に素直に生きていればあり方を決めなくても自然と行動に一貫性は出てくるって!!

という自論を展開し結論

"決めないということを決めました"

という在り方になったわけですw

 

ただ、単純にフローと時代の流れを汲み取ると

それに人生を捧げる!賭ける!という覚悟と決断こそが魅力なのではないだろうか。

 

このブログをここまで読んでくれた人に一番共有したいことは、

 

フリーランスだのサラリーマンだのと言うが

いつの時代も有能とされ、魅力があると言われて来た人は、

決断した人である。

 

と言うこと。

だからこそ

 

在り方とは、

人生に置ける終身雇用のようなものである。

 

と、私は言いたい。

偽物の感情

どうも

シューリーです。

 

私は、この間

すごくすごくいい出来事があったんだ!!

その出来事を誰かに言いたくて言いたくて

ポッと浮かんだ師匠の元に報告に行った。

 

私は、師匠に会うと無我夢中でその出来事を話した。

師匠はニコニコしながら聞いてくれて

話が終わると、一呼吸置いて

「すごく嬉しかったんだね」

と優しく言ってくれた。

 

その時は、若干の違和感を感じながらも

プラスの感情には、間違いなかったので

「嬉しかったです!!!話を聞いてくれてありがとうございました。」

と言って、師匠の元を去った。

 

その後も、いろんな人に「嬉しい出来事があったんだ!」と話し続けた。

それは、家に帰ってからも続き、「お母さん聞いてくれ!嬉しい出来事があったんだ」

と話し始めた。

 

お母さんもニコニコしながら聞いてくれた。

しかし話し終わるとお母さんは、違和感を感じている顔をしている。

若干の沈黙を置いて、

「それは、嬉しかったのかい?楽しかったんじゃないの?」

と言った。

感情についての話だ。

「あなたは、嬉しかったと言っていたけど、出来事の内容的にはどちらかというと

楽しいことよね?」

私は、ただただ気持ちよく話せればそれでよかったので、

水を差された気がして機嫌が悪くなった。

「俺は、嬉しかったんだよ!!もういい!」

そう言うと僕は、自分の部屋に戻った。

ムカムカが止まらない、イライラしてしょうがない

なぜただただ聞けないのか、なぜあんなことを言うのか

気になってしょうがなかった。

 

イライラが収まり冷静になっていくうちにイライラの正体がわかってきた気がした。

お母さんが言っていたことは、私も引っかかっていたことだったのだ。

それを見ないフリして振る舞っていたところに図星を突かれ、イライラした。

それが原因だ。

 

師匠と話した時の違和感。

私は嬉しいわけではなかったのだろうか

そう言われるとそうではないし、嬉しかった気がする

前にあった嬉しい出来事と気持ちは似ているし、、、

ん?ほぼ同じか?それどころか全く同じ気がする!

同じとなるとおかしいぞ。

あまりにも嬉しかった時の出来事と今回の出来事の種類が違いすぎる。

私が嬉しいと認知したのは、師匠と話した時だ。

あの出来事の感情を言葉として表現したのは、あの時が初めてだ。

 

その時私は、気がついた。

 

信頼している師匠から言われたことを信じ、

「きっとそうだ!私は、嬉しいんだ!」と思い込み

過去の出来事から気持ちをトレースしていたのだ。

 

今回ばかりではない。

他の出来事でも自分が言葉にした瞬間から

気持ちは徐々に作られていく、出来事の時の気持ちではなく

出来事を話している時に出来事の時の気持ちを言葉に当てはめて作っている。

そしてその言葉を話し、自己暗示のようにそうだ!と思い、思い出は作られていく。

 

 

私はあの時、どんな感情だったのだろうか

考えても考えてももう思い出せない。

もう、あの時の本当の気持ちには戻れない、、、

 

これは、偽物の感情だ

 

Fin

 

※これは、フィクションです。

モノの消費からコトの消費に変化した訳のわからん時代への突入

どうも

シューリーです。

 

今回は、僕が素直に感じていることを書こうかなぁと思っている。

先日パートナーから

「君の人生哲学が面白いからそれが見たい!!」

と言う声をいただき、僕の人生哲学ってなんだろうなぁと

思いながら書いてみる。

 

最近いろんなことに疑問を持つようになり

世の中の流れをぼーっと観察している。

それだと事象の登場人物にはなれないが、大まかな事象の流れを把握するには

結構いい方法だ。

 

最近よく聞く以下の言葉

「生き方」

「在り方」

「好きなことで生きていく」

「自由(フリーランス)」

 

この言葉に疑問を抱くことが最近は特に多い

これらの言葉を克服し

自由に!!フリーに!!満員電車に乗らなくていい!!

そんな言葉を発言する人、目指している人

めちゃめちゃ増えた!もはや量産型並みに増えた!

 

この言葉に縛られすぎだ

 

なんて言いながら私もフリーランスなんだけどねw

 

量産型フリーランスが増えた結果サービスの品質は下がり続けている

コトの消費が激しいことも相まって

質が低くてもセミナーなどを開いて人が来る時代

時流に乗っていると言うべきだろう

 

上で述べた4つの言葉は、人生でめちゃめちゃ大事なことだと思う

しかしコンテンツにするべきではなかった。

 

だってそうだろ?

・生き方の見つけ方を習う

・在り方の見つけ方を習う

・自分の好きなことって何?

・縛られるのが嫌だ!だから自由という別の縛りの世界に行く!

 

これは、読んでくれているあなたに言っているのではない!

世の中に言っているんだ!!

 

生き方なんて生まれた時点で成長しながら俺が決めて行くし

在り方だって俺の好きにするよ!

好きなことなんていつだって出来るだろ?

生活に必要な事さえ済ませれば後は自由時間さ!!

 

要は、全ては俺が俺の人生を歩んで行く中で身につけて行くものなんだよ!!

 

それを習わないとできなくなったのはなぜだ

自分がわからなくなったのはいつからだ

 

そしてなんでもかんでもコンテンツ化して、、、

俺の人生のネタバレしようとするのはなんでなんだ

 

そう感じるようになっていった

 

なんども言うがコンテンツ化を否定しているんじゃない

コンテンツが必要な世の中を否定しているんだ

 

世の中のセミナー、コミュニティに不信感は募るばかりだ

 

その結果私は、

「全ての事を"決めない"と言うことを決める」

と言う決断をした

決断するのはいつも決断が必要な時の自分であって

今の自分が将来の自分に向けて

「俺はこう生きて行くからその生き方にあった決断をしろよ」

なんて決めない

 

ここまで書き殴って見て思ったのは、

私は、言語化できていないだけで

生き方、在り方はすでに決まっているのかもしれない。

それでも私は、それを言語化しない

言語化したら必ずその言葉にとらわれるからだ

どんだけ近いニュアンスでも必ず齟齬が生まれる。

感じている、それが重要だと思ふ

 

ただ一つだけ訂正したいのは、

私は今、強靭な精神力とある程度の頭の回転力を持っている

それは紛れもなく

これまで参加したセミナーや人との関わりの中で身に付いたものである

関わってくれた全ての人に感謝している

ルールは守るものだが、理由にはならない

どうもシューリーです。

 

あなたは、学生時代に学校で茶髪にしてはいけない理由を考えたことはあるだろうか

私が一番最初に思ったことは、

 

「校則だから!」

です。

 

その通り!!正解!!

校則だからやってはいけないんです。

しかしその行動は、茶髪にしない理由にはならないんですよ。

 

もっと極端な例を出すと

あなたが人を殺さない理由は「法律だから!!」ですか?

と言うことです。

 

私が人を殺さない理由は、その人を殺すことによって広がる

悲しみの波紋が嫌だからです。(ちょっとカッコよく言って見たかった)

 

むしろ人を殺さない理由が「法律だから!!」だと言う人が

いたらめちゃめちゃ怖いですよw

要は法律的に"殺人OK"の国になったら普通に殺すこともあると言うことです。

その人を繋ぎ止めるものは、ルールしかないんです。

 

初めの話に戻るが、校則には意味のないルールが多く存在する

だからルールについて作る側、従う側の以下の心得が必要だと思います。

 

ルールを作る側:

ルールは常に正しいかを精査し、必要あらば即時変更すべきである。

動き続けるルールこそが正しいルールの形である。

と私は思う。

 

ルールに従う者:

ルールは一つの判断基準に過ぎず、いつも判断するのは

自分主体である事、自分が判断したと言う意識を持つ事

これが大事!!

 

一度、疑問に思うルールがあったら考案者に質問して見てください。

以下の可能性があります。

 

意味がないルール

・発案時は意味があった時代に即していないルール

・そもそも形式を意識した意味がないルール

意味があるルール

・あなたが気づかなかった深く素敵な視点を考慮したルール

 

質問して見て意味があるルールだった場合

あなたは、また一つ知らなかった視点を増やし成長できるきっかけになるかもしれません。

 

一度、自分の行動基準を見直してみてはいかがでしょうか。

人のために行動したいならまずは見た目を整えよう!!

どうも

シューリーです。

先日家でなるほどなぁと思うことがあったので、そのことについて共有しようと思う

 

結論から言おう!

「人のために行動したいならまずは見た目を整えよう!!」

 

 

人の行動とは、行動自体で解釈されることはなく

大きく分けて以下のポイントを踏まえた解釈により完成される

・行動

見た目

・状況

今回は見た目に絞って共有したい

 

先日私が体験したことを2つ例にあげると

例1

行動 :深夜に唐揚げを食べる

見た目:ぽっちゃり

状況 :寝る前

例2

行動 :深夜に唐揚げを食べる

見た目:ガタイがいい

状況 :寝る前

 

この状態をシェアハウスメンバーに発見された

その時に、かけられた言葉は

例1:「そんなことしてるから太るんだぜw」

例2:「それは、なんか体にいいのかい?」

 

見た目以外全てが同じ状況でも返ってくる言葉は、全く違った

続けて僕は、「なぜそのような事を言うのか」と聞くと

例1:「だって体に現れてるだろw心配なのさ」

例2:「それをしててもその体になったんだろ?その行為がいいことかそれ以上の別のことで相殺しているとしか思えない」

 

以上のことから2つのことがわかる

・見た目が与える行動解釈への影響は大きいこと。

・人は、行動単体を見ることはなく、状況や見た目を考慮して推理すると言うこと

 

私は、この体験をして以下の想定をして見た

例1

行動 :「手伝いますよ!!」

見た目:怪しさ満点の詐欺師っぽい見た目の人

状況 :階段を登るためにベビーカーを持ち上げようとしている時

行動した本人の心情:助けになりたい気持ち100%

例2

行動 :「手伝いますよ!!」

見た目:超好青年

状況 :階段を登るためにベビーカーを持ち上げようとしている時

行動した本人の心情:助けになりたい気持ち100%

 

私の想定では、

例1:「いや、結構です(絡まれたら何されるかわからない)」

例2:「本当ですか!ありがとうございます!」

となる

 

要は、人のために行動したいならば

与える印象も大事と言うこと

 

どんだけ人のためを思った行動でも相手を不快にする見た目、そぐわない見た目では、

最悪な場合迷惑にすらなりかねないと言うこと

 

だからこそ人のために活動したい!と言う人は、

自分の見た目がその行為をしそうな人かどうかを気にすることは重要なことだと思う。